本間宗究(本間裕)のコラム

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2013.5.18

社会の木鐸

今では死語になりつつあるが、かつては、「社会の木鐸(ぼくたく)」という言葉が存在した。つまり、「世の中の間違いや矛盾などに警告を発し、人々を正しい方向へと導く人々」のことであり、実際には、「新聞社」や「新聞記者」などのことを指していたのである。しかし、現在では、ほとんどこの機能が失われているようであり、結果として、多くの国民は、「金融混乱の嵐の中で、右往左往しているような状況」にもなっているようだ。

そして、この理由としては、ある政治家の言葉を借りると、「新聞社とテレビ局が同系列である」という点が指摘できるようだが、確かに、「世界を見ても、日本だけが、このような異常な状態にある」とも言えるようだ。その結果として、「テレビと新聞とで、まったく同じ意見が報道される」という状況となっており、「日本国民は、その意見を信用せざるを得ない状態」になっているのだが、特に、現在の「世界的な金融問題」においては、「マスコミの勉強不足」とも相まって、「ほとんど真実が知らされていない状態」とも言えるようである。

また、日本人の特徴としては、「議論」と「喧嘩」とを混同しやすい性質があるために、「余計な事を言わずに、穏便な発言に終始する」ということが、往々にして、起きやすくなるようだ。つまり、今回、「橋下大阪市長」が提起した「慰安婦問題」や、「安倍首相」が提起した「憲法改正問題」などのように、「重要な問題について、国民的な議論を活発にする」というのではなく、反対に、「面倒な問題については、当たり障りのない意見を述べ、真剣な議論を避ける」というような風潮が存在するようにも思われるのである。

しかし、現在では、さまざまな「制度疲労」や「問題の噴出」などにより、正確な「歴史認識」が求められるとともに、今後の混乱に対して、適切な「アドバイス」が必要な状況とも考えられるのである。つまり、「自分の意見を堂々と主張しながら、誤った時には、間違いを認め、より高度の考えを導き出す」という態度が求められているものと思われるのだが、どうしても、日本人は、「自分の意見」に固執し、「相手の意見」を尊重するということが苦手なようにも感じられるのである。

そして、最後の段階では、「信じられないような事件の発生」や「社会情勢の大きな変化」に遭遇することにより、「真摯な態度で歴史を振り返り、これからの世の中を真剣に創り上げる」とい態度が生まれるものと考えているが、このような観点からは、「現在の金融混乱も、全てが必要であり、必然なこと」とも言えるようである。