本間宗究(本間裕)のコラム
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2016.6.24
アダムスミスと神の見えざる手
「経済学の始祖」と呼ばれ、当時は神学者だった「アダムスミス」が、その著書の「国富論」で説いたことは、「神の見えざる手」だった。つまり、「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として、社会全体の利益となる望ましい状況が生まれる」というものであり、この理由として、「神の見えざる手が働く」という点が指摘されていたのである。しかし、結果としては、ご存知のとおりに、「個人の欲望を開放したために、マネーの大膨張が発生し、しかも、ほとんどのマネーは、一部のメガバンクや政府によって支配されている状況」となっているようにも考えられるのである。
別の言葉では、「合成の誤謬」という言葉のとおりに、「一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を取ったために、結果として、想定と逆の事態が発生する状況」となっているようにも感じられるのである。そして、この理由としては、「アダムスミス」が想定した「神の見えざる手」に関して、その後の「変化」が指摘できるようだが、実際には、「西暦1900年頃」に発生した「科学と宗教との闘争」のことである。
つまり、この戦いで起きたことは、「科学が宗教に対して、全面的な勝利を収めた」という変化であり、その結果として、世界中の人々が、「科学は万能であり、また、宗教はアヘンである」という理解をし始めたのである。別の言葉では、「唯物論」が「唯心論」に対して勝利を収めたわけだが、この結果として発生した事態が、「神の見えざる手」の消滅でもあったようである。
そして、現在では、「お金」が「現代の神様」となり、人々の「心」を支配した状況のようにも思われるが、実際には、あまりにも「殺伐とした社会」が形成され、また、多くの人々が「心の闇」を抱えた状態のようにも感じられるのである。つまり、「神の愛」が、表面的に、失われた状態のようだが、この点を深く考えると、実は、このことも、「神の見えざる手」の結果だったようにも思われるのである。
つまり、「市場経済」を、最終段階にまで行きつかせることにより、世界中の人々に「気付き」を起こさせている可能性のことだが、さすがに、現在では、多くの人が、「このままではいけない」と感じ始めているようである。別の言葉では、漠然とした不安感を抱き始めているようだが、問題は、「なぜ、このような事態になったのか?」についての、歴史的な考察、具体的には、「共同体」に対する理解が足りない点であり、この時に、大きな意味を持つのは、やはり、「現代の神である『お金』が、紙切れになる状況」でもあるようだ。