本間宗究(本間裕)のコラム

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2016.7.25

壺を被った現代人

東洋学には、「壺中の天地」という故事があるが、具体的には、「薬売りの老人が壺の中に入るのを見た人が、一緒に、その壺の中に入れてもらい、さまざまな経験をした」という話のことである。また、この言葉は、現在、「俗世間を忘れ、一人で楽しむ」、あるいは、「嫌な仕事よりも、ゲームやスポーツなどの趣味に没頭する」というような意味合いで使われているようである。

あるいは、「現実世界に目をそむけ、自分の都合だけを考える場合」にも使われているようだが、この時に必要なことは、「なぜ、多くの人が、このような状態に陥ったのか?」を、深く分析することでもあるようだ。つまり、「経済成長」により「社会の組織化」が発生した結果として、現在では、多くの人が「サラリーマン化」し、同時に、「社会的な疎外感」を感じているようにも思われるのである。

別の言葉では、「巨大社会の部品」と化した現代人は、「見える範囲」が狭まったために、一種の「無力感」を味わっているようにも思われるが、この結果として発生した事態が「壺を被ったような状況」のようにも感じられるのである。つまり、「自分の世界」に没頭することに「生きがい」を感じるとともに、「刹那的な生き方」をしがちになる傾向のことだが、この点については、既存の社会体制が継続する限り、今後も、このような人が増えることが予想されるようである。

ただし、「歴史」を振り返ると、このような状況下で発生する事態が、「既存の体制や価値観の崩壊」とも言えるようだが、実際には、「明治維新」の時に、それまでの「幕藩体制」が崩壊したような状況のことである。あるいは、「大東亜戦争の終戦時に発生した価値観の大転換」のように、「それまでの教科書に、墨を塗ったような状況」のことでもあるが、現在、私が危惧することは、やはり、「現代の通貨が、ほぼ瞬間的に、紙切れになる事態」である。

つまり、「国債価格の暴落」とともに、「お金の価値が激減する事態」のことだが、この時には、ほとんどの人が、「壺」を被り続けることが困難な状況が考えられるのである。別の言葉では、「嫌でも、現実を直視せざるを得ない事態」が発生する可能性のことだが、歴史を見ると、「この時に初めて、人々の目覚めが発生した」ようにも感じられるのである。別の言葉では、世の中が明るくなり、自分の可能性を追求し始める状況のことだが、現在の日本人にも、そろそろ、このような時期が訪れているものと思われるのである。