本間宗究(本間裕)のコラム
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2021.5.14
精神世界と物理世界
今から200年ほど前に著わされた「ヘーゲルの歴史哲学講義」では、「精神世界」と「物理世界」が区別されているが、この点には、特別の注意を払う必要性が存在するものと感じている。つまり、私自身は、「神が創った世界」と「人間が造った社会」とを区別すべきであると考えており、実際には、「自然科学」が「神の創った世界を研究する学問」であり、また、「社会科学」が「人間の造った社会を研究する学問」のことである。
また、「ヘーゲル」が指摘する「精神」については、「心」と理解すべきであり、実際には、私自身の「心の仮説」のとおりに、「神の精神」と「動物の肉体」を併せ持った「人間」が「心」という「不思議な存在」を獲得したことにより、「人類の歴史」が始まったものと思われるのである。つまり、「ヘーゲル」が指摘するとおりに、「世界の歴史とは、精神が本来の自己を次第に正確に知っていく過程を叙述するものである」という点には賛同するものの、残念な点は、「人間が心を駆使して、精神的な成長を遂げる過程が人生である」という認識が抜けている可能性である。
より具体的には、「萌芽のうちに樹木の全性質や果実の形がふくまれるように、精神の最初の一歩のうちに、歴史の全体が潜在的に含まれる」という「ヘーゲルの指摘」のとおりに、「人類は、時間をかけて精神的な成長をする存在」であり、私自身も、「この観点から、世界の歴史を研究すべきである」という認識を持っているが、残念な点は、やはり、「ヘーゲルが仏教を理解していなかった事実」だと感じている。
より具体的には、「ヘーゲルの理論」に「文明法則史学」と「マネー理論」を加えることにより、実に多くの「気付き」が得られるものと感じているが、同時に不思議に思う点は、「なぜ、マルクスが、貨幣と商品の研究だけに特化していったのか?」ということである。つまり、「精神世界」が放棄され、「物理世界」における「貨幣と商品の関係性」だけに関心が集まり、その結果として、「経済学」の発展に繋がったわけだが、一方で、「精神性」や「道徳の観念」などについては、ほとんど無視された状況となっているのである。
別の言葉では、「物理世界」を中心的な研究課題とした「西洋文明」においては、「ヘーゲルの思想」自体が異端であるとも思われるが、この原因としては、「ヘーゲルが、ギリシャ神話にまで遡り、人類の精神文明の発展史を研究した事実」が指摘できるとともに、「マルクス」が指摘する「資本主義崩壊の後に来る時代」は、「ヘーゲル」が指摘する「人間の本質を意味する精神世界が追及される時代」とも思われるのである。