本間宗究(本間裕)のコラム

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2014.2.7

オウム事件の再考

現在、「オウム裁判」が、再び、世間の注目を浴びているが、この事件が起きた「1995年の3月」以降の日本を振り返ると、「大きな変化」が起きた事が理解できるとともに、「この事件も、たいへん大きな意味を持っていた」ようにも感じられるのである。具体的には、「なぜ、麻原彰晃というような人物が、世の中に登場したのか?」ということであり、また、「なぜ、多くの優秀な人々が、オウム真理教にのめり込んだのか?」ということである。あるいは、「なぜ、宗教とお金とが、混在するような事件が起きたのか?」ということなど、実に、いろいろな点を考えさせられた事件でもあったのである。

つまり、「普通の庶民」と考えられていた人々が、「ある日、突然、事件に巻き込まれて犯罪者となる」というような状況が、「オウム事件」に限らず、「企業の犯罪」など、数多くみられたからである。あるいは、「企業のリストラ」などにより、「職を失い、ホームレスに転落した」というようなケースも、数多くみられる状況でもあり、このことは、現在の世の中が、大きな「変革の時代」に見舞われていることを意味しているようにも感じられるのである。

このように、「オウム事件」が起きた当時は、「麻原彰晃」や「事件の関係者」は、「特別な存在」であり、「憎むべき犯罪者」だと考えていたのだが、現在では、「罪を憎んで、人を憎まず」というように、「同情すべき点もあったのではないか?」とも思われるのである。つまり、「盗人にも、三分の理」という言葉が、昔から存在していたように、さまざまな困難の時代を経てきた人々にとっては、「普通の庶民が、犯罪者に転落する」というような事例を、数多く見てきたことも考えられるのである。

そして、この点を、「人間の宿命」の観点から考えると、「麻原彰晃」という人物は、「宗教の魔力」や「人間の洗脳」を、人々に教えるために、この世に生まれてきた可能性も存在するようである。つまり、「数多くの罪を犯した点は、まさに、死刑に値する」とも言えるのだが、かりに、「輪廻転生」が存在し、「あの世に帰った時に、どのような感想を抱くのだろうか?」と考えた場合には、「実に、嫌な役割を果たす役割だった」という可能性も存在するのである。

つまり、「それぞれの人には、別々の使命がある」ということが、現時点の感想でもあるのだが、このことも、「世の中が進化する過程では、時々、ヒットラーのような人物が誕生する」ということの理由とも考えられるようである。