本間宗究(本間裕)のコラム

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2016.5.12

吾唯足るを知る

京都の竜安寺に、「吾、唯、足るを知る」という有名な蹲(つくばい)があるが、この言葉にも、長年、悩まされてきた。つまり、「言葉」は知っていても、本当の「意味」が理解できなかったようにも感じているが、現時点での解釈としては、「日々是好日」や「喜神を含む」と同様の内容ではないかと考えている。具体的には、「天や神は、常に、全ての人に最高の環境を与えているのではないか?」ということであり、このことには、「病気」や「災難」までもが含まれている可能性のことである。

別の言葉では、「天や神は人類の親のようなものである」、そのために、「人類の精神的な成長を望み、いろいろな環境を与えるのではないか?」という認識のことだが、今までは、この点が、ほとんど理解できなかったのである。つまり、「なぜ、病気や災難が降りかかるのか?」、あるいは、「なぜ、何度も大震災などが発生するのか?」を考え続けてきたのだが、現在では、「全てのことには、大きな意味が存在するのではないか?」とも思われるのである。

つまり、「人智」という「人間の欲望や願望」などから考えると、「病気」や「災難」、あるいは、「戦争」などは、実に痛ましい出来事とも言えるのだが、一方で、「自分の人生」や「人類の歴史」を振り返ると、「いろいろな出来事が起きたことにより、現在の生活や社会が存在するのではないか?」とも考え直し始めたのである。別の言葉では、「与えられた環境において、最善の努力をする」ということが、「吾、唯、足るを知る」が意味することのようにも感じているが、どうしても、不満や不足が出るのが、人間の性(さが)とも考えられるのである。

具体的には、「なぜ、このような不幸な目に遭うのか?」、あるいは、「なぜ、もっと楽な暮らしができないのか?」などと考えがちになるのだが、基本的には、「乗り越えられない試練は、天や神は与えない」とも言えるようである。また、「輪廻転生」を考えると、「今世の経験は、来世に持ち越せる」とも考えられるために、「現在の問題や課題に、全力を尽くす」、そして、「できるだけ多くの人に、自分の仕事を通じて喜んでもらう」ということが、人生において、最も大切なことのようにも感じられるのである。

このように、今までは、自分の「人生の意味」についても、大きな誤解をしていたようだが、今後は、「残された命を、どのように使うのか?」、また、「どれだけ、天の貯金という徳積みができるのか?」を考え、実践することが重要なようにも感じている。