本間宗究(本間裕)のコラム

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2018.2.11

勝てば感動、負ければ落胆

「平昌冬季オリンピック」が始まったが、以前から違和感を覚えていることとして、「多くのスポーツ選手が、『人々に感動を与えたい』とコメントしている」という点がある。つまり、「いろいろなスポーツ選手が、血の滲むような努力をして、人間の肉体的限界に挑戦する姿」は、間違いなく、多くの人に感動を与えるものと思われるが、実際には、「メダルを取った選手には感動し、惨敗した選手には落胆や失望感を抱く傾向がある」ようにも感じられるのである。

しかも、この時に、ほとんどの国民は、「映像」という、一種の「仮想現実」、あるいは、「自分の人生にとって、ほとんど影響のない世界」に対して、喜んだり嘆いたりしている状況とも言えるようである。ただし、現在の「マラソンブーム」のように、「多くの人々が、オリンピック選手などに刺激を受け、自分自身の肉体的可能性に挑戦する状況」については、まさに、「感動」という言葉のとおりに、「感じて動く」という結果をもたらしたものと考えている。

このように、「人間は、人間によって磨かれる」という点には、まったく疑問の余地がないようだが、現時点での注目点は、「肉体」という「目に見えるもの」から、「精神」という「目に見えないもの」への変化が起こる可能性である。つまり、「人々が望むものは、時間とともに変化し、常に新たなフロンティアを開拓する傾向」があり、実際には、間もなく、「精神面での限界に挑戦する可能性」が想定されるのである。

別の言葉では、「近代オリンピック」が、すでに、「資金面での問題」に直面していることからも明らかなように、今までは、未曽有の規模での「マネーの大膨張」が存在したために、現在のような「巨額な費用が必要なスポーツの祭典」が可能だったようにも思われるのである。あるいは、「プロのスポーツ選手」が巨額な報酬を貰っていることも、同様の意味を持っているようにも感じている。

しかし、今後は、「西暦400年前後」に終了した「古代オリンピック」と同様に、「資金面での問題」や「さまざまな不正事件」などにより、「オリンピックの開催」が難しくなる状況も考えられるのである。そして、その時から、「人々の興味と関心が、精神面での限界挑戦」に移行するものと考えているが、実際には、このことが、「社会科学」という「人々の意識や行動を研究する学問」であり、「300年ほど前の自然科学」と同様に、今後、飛躍的な発展をする可能性が存在するようにも思われるのである。