本間宗究(本間裕)のコラム

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2018.12.14

脳と悩みについて

「心」は、基本的に、「魂」と「肉体」との間を、行ったり来たりする性質があるものと考えているが、この点を理解するうえでは、「脳」と「悩」という漢字が参考になるようだ。つまり、「脳」という文字は「会意文字」で、「乳児の頭蓋骨」と「髪」が「肉体」に付いている様子を表しているが、不思議な点は、「悩」という文字が、「肉体」を意味する「にくづき」ではなく、「心」を意味する「りっしんべん」となっていることである。

別の言葉では、「漢字」が創られたのは、今から「4千年前」とも言われているが、当時の人々は、「悩みが脳から発生する可能性」、あるいは、「この問題に心が媒介している可能性」などに気付いていたようである。ただし、この時の注目点は、「魂」が、「神の分け御霊」と呼ばれる、「高貴な精神」を伴った存在でありながら、一方で、「動物」と同様の本能を持った「肉体」は、「生存本能」のために「他者を犠牲にしなければ、自分の存在が脅かされる状況」だと考えている。

つまり、「悩み」の本質は、「高貴な精神」と「肉体の欲望」との間で、「行ったり来たりする状況」を表しているものの、一方で、「煩悩即菩提」という言葉のとおりに、「心の成長」が促進される状況も想定されるのである。具体的には、私が作成した「心の座標軸」のとおりに、「目に見えるもの」と「目に見えないもの」、そして、「自分」と「他人」との間で、「心は、常に、揺れ動いている状況」となっているものと思われるのである。

そして、何度も「生まれ変わり」を経て、最後には、「お釈迦様と同程度の人格にまで行きつくことが可能である」ということが、「成仏」が意味することであり、また、「仏教」が教えることでもあるが、現在の「唯識論の理解」については、いまだに、「唐代の僧」である「玄奘三蔵」が、法典を持ち帰った時代から、ほとんど、進化していない状況のようにも感じられるのである。

つまり、最も重要な部分が抜け落ちているものと思われるが、実際には、現在の「経済学」と同様に、「マネー理論」を抜きにして「実体経済」だけが議論されている状況のことである。より具体的には、「心の謎」を考える時に、「魂」と「肉体」との関係性を無視することであり、その結果として、「唯心論」や「唯識論」の研究においても、「理屈の堂々巡り」、あるいは、「観念論が支配している状況」となっているようだ。別の言葉では、今後、「東洋の時代」が始まることにより、また、「人工知能の発展」などにより、この点に関する解明が、飛躍的に発展する状況を想定している。