本間宗究(本間裕)のコラム
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2019.5.10
人類最古の哲学問題
最近、気付かされたことは、「社会科学」が、「経済学」や「マネー理論」だけではなく、「哲学」を意味している事実だったが、実際には、「自分とは、いったい、何者なのか?」が、「西洋哲学」や「仏教」などが、最も悩まされた大問題だったようにも感じられるのである。つまり、「一切は空である」という「仏教の教え」を理解しようとした人々が、「心だけは、自分のものである」と理解し、その後、「唯識論」を展開し、また、「近代の西洋哲学」においては、「デカルト」が「我思う、故に我あり」という言葉により、「自分」を理解しようとしたのである。
そして、私自身も、「ライフワーク」として、「お金の謎」や「時間のサイクル」、そして、「心の謎」を考え続けてきたが、過去半年の間に、「閃き」によって得られた「仮説」は、「神が創った肉体に、神の分身である魂が入った時に、心が発生する」というものだった。しかも、「心だけが、人間が自由にできるもの」であり、また、「心が動いた時に行動が発生し、その後、感情や絆が生まれる」という点にも気づかされたが、この仮説により、「デカルトの言葉」や「唯識論」を検証すると、単純な間違いが存在したようにも感じられるのである。
具体的には、「デカルトの言葉で、『我』という言葉が、何を指しているのか?」ということだが、実際には、「肉体」と「魂」、そして、「心」が合わさった状況とも思われるのである。つまり、「心が肉体を動かし、行動が対象物に向かった時に、感情や絆が生まれる」というように、「人間の心や行動、そして、感情や絆」を、より細かく分析することにより、「人間の正体」が、はっきり見えてくる可能性である。
より詳しく申し上げると、「自然科学」や「実体経済」は、「神が創った世界」に属しながら、一方で、「社会科学」や「マネー経済」は、「人間の心が決定する社会」のために、「技術的な発展が、地球環境を破壊する可能性」が発生したことも理解できるのである。つまり、「原子力」や「過剰なマネー」などの存在により、「人類が、地球上に住めなくなる可能性」が出てきたわけだが、この点については、究極の「本末転倒状態」とも言えるようである。
具体的には、「人類の欲望」が制御できなくなった時に、「地球」そのものが、「人類」を許容しなくなる可能性のことだが、この点に関して最も大きな影響を与えてきたのが、「デリバティブ」や「マネー」の「大膨張」でもあったようだ。