本間宗究(本間裕)のコラム

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2019.10.23

空海の著書を読んで

最近、「空海の著書」に出逢う機会を得られるとともに、大きな衝撃を受けた状況でもあったが、その理由としては、私自身の「浅学菲才さ」に、あらためて「慙愧(ざんき)の念」を覚えたからである。具体的には、「空海」が、「24歳」で書かれた「三教指帰(さんごうしいき)」を読んだだけで、「どれほどの想いを持っていたのか?」が、はっきり理解できたようにも感じられたのである。しかも、その後、「遣唐使」として「唐」に渡り、「恵果和尚」と出逢った状況についても、再度、「奇跡が存在する可能性」を考えさせられるとともに、「57歳」で書かれた「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」については、「真言密教」の奥深さを、深く感じさせられた次第である。

ただし、同時に感じたことは、さまざまな疑問でもあったが、具体的には、「何故、私自身が、今まで、これらの著書を読む機会に遭遇しなかったのか?」ということであり、また、「なぜ、真言密教は、その後、法然や親鸞などの念仏仏教に移行したのか?」、あるいは、「1221年の承久の乱をキッカケにして、なぜ、日本人は、武士の時代に移行したのか?」などである。

別の言葉では、「明治維新以降の廃仏毀釈が、どれほど、現代人の思想に影響を与えたのか?」ということでもあるが、実際には、私自身も含めて、「多くの日本人が、『仏教』に対する正しい認識や理解を失った状況」だったようにも感じられるのである。つまり、「梅原猛氏」が主張するとおりに、「西洋諸侯に、武力や経済力で追いつき、追い越す」という「明確な目標」を持った「日本人」は、「簡素化された神道」の下に、「富国強兵」や「殖産興業」に邁進した状況だったようにも感じられるのである。

その結果として、現在の日本人は、「心」よりも、「お金」に対して、大きな価値を置くようになったものと想定されるが、このキッカケとなったのが「廃仏毀釈」であり、実際には、現在でも、いろいろな寺院で「首が切られた地蔵」が見かけられるのである。つまり、「仏教が抹殺されそうになった状況」のことだが、現在では、多くの日本人が、このような歴史が存在したことも忘れ去っているものと思われるのである。

その結果として、現在では、「心の闇」が、日本を覆っているものと考えているが、この点については、今回、「空海の書物」を読むことにより、あらためて、「文明法則史学」の正確性に自信を持った次第でもある。しかし、一方で、「心を失った人々が、今後、どのような社会を、世界的に創り出すのか?」が気になったことも事実である。