本間宗究(本間裕)のコラム

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2020.7.1

十字架のイエス

森友事件で自殺された「赤木俊夫氏」の手記を読むと、自分の心までもが張り裂けそうな気がするが、当時の赤木氏の心境としては、「自分は、とんでもない罪を犯してしまった。罪を償う方法としては、もはや、自分の命を絶つことしか残されていない」と考えた状況のようにも思われるのである。そして、この事件から想起されることは、「十字架のイエス」でもあるが、聖書によると、イエス・キリストは、十字架の上で「二つの痛み」を味わった可能性が存在するものと感じている。

つまり、最初は、肉体の痛みであり、実際には、手に釘を打たれた時に、「神は、私を見捨てたのか?」と嘆いたものと思われるが、もう一つは、自分の体に槍が刺さり、命が消え行こうとした瞬間に、心の痛みを味わった可能性である。具体的には、「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのかわからないのです」と叫んだ状況のことだが、この「彼ら」には、「すこし前に、神を恨んだ自分自身」も含まれているようにも感じられるのである。

そして、この「二つの痛み」を、今回の「赤木氏」に当てはめてみると、「罪を犯した自分の愚かさ」に対して、「自分自身に嘘を付けない」という思いが強くなったものと思われるのである。つまり、「心の痛み」、あるいは、「良心の呵責」が、きわめて大きなものとなり、「肉体の痛み」を忘れるほどの状況となった可能性のことだが、薄れゆく意識の中で「赤木氏」が観たものは、「十字架のイエス」と同様に、「自分と他人への許しを神様に願う姿」だったのではないのだろうか。

「自分は、文書の改ざんと自分の命を絶つという、二つの罪を犯したが、現在では、自分の罪の重さに気付くことができた。しかし、佐川元局長は、心の底では、自分の罪に気付きながらも、いまだに、罪の償いができない状況である」

具体的には、上記のとおりに、神様に対して、「一刻も早く、佐川氏が気付きを得て、心が救済される状況」を、心の底から願った可能性のことである。つまり、「輪廻転生」を信じる東洋人は、昔から、「積善の家には余慶あり、積不善の家には余殃あり」という言葉などにより、「罪は、必ず、償われる性質を持っている」という理解をしていたものと考えられるのである。より詳しく申し上げると、「現世の罪」は、「来世」、あるいは、「来来世」まで持ち越される可能性のことであり、また、「自分の罪」は、子々孫々にまで受け継がれる可能性のことである。