本間宗究(本間裕)のコラム

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2020.12.18

恥と恐怖心

最近の国会では、「政治家や官僚が、平気で嘘を付く事態」が頻繁に見られるが、彼らが考えていることは、「国法に抵触しなければ、どのような行為も許される」ということでもあるようだ。別の言葉では、弘法大師空海が悩んだように、「国法を破ってでも、仏法に従うべきである」というような態度は、現在の世界で、全く期待できない状況のようにも感じられるのである。

そして、この原因としては、「恥の基準」が変化した点が指摘できるものと思われるが、実際には、「人爵」という「地位や名誉、そして、お金」が重要な価値基準となっている現代人にとっては、「どのような手段を用いても、自分の人爵を守るべきである」と認識されているものと考えられるのである。つまり、「恥」という文字は、「耳を心に持っていく状態」を表しているが、現代人の「心」は、目に見えるものだけを追い求めている状態とも言えるのである。

より具体的には、「自分の心には嘘を付けない」という事実を認識していながらも、「自分の求める価値観」に左右されている状況のことだが、この点に関して、「800年前の人々は、どのような価値観を持っていたのか?」を考えると、実際には、全く正反対の状態だったものと想定されるのである。つまり、当時の人々は、「天爵」という「精神面における地位の向上」を望んでおり、この点については、「空海の十住心論」などにより、基本的な認識が出来上がっていたものと思われるのである。

そして、「嘘」などの「罪」については、必ず、「罰」が伴うものと考えられており、しかも、「現世」だけではなく、「来世」にも、この罰が付いて回るという恐怖心が伴っていたものと理解できるのである。つまり、現代人の恐怖心は、「国会で、どのような醜態をさらそうとも、地位や名誉、そして、お金を失わないこと」にあるわけだが、一方で、「800年前の人々」にとっては、「あの世に持っていけないものよりも、あの世での生活を恐れた状況」だったようにも感じられるのである。

具体的には、「地獄に落ちて、さまざまな罰を被る事態」のことだが、この点については、現代人も、「あの世が近づくにつれて、恐怖心が増す状況」とも言えるようである。つまり、「現世の罪は、現世で償わなければいけない」という思いが強まる可能性のことだが、実際には、「自分の心における闇」が深くなるとともに、「神様や閻魔様は、すべてご存じである」という認識が強くなる状況とも感じている次第である。