本間宗究(本間裕)のコラム
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2021.5.19
ヘーゲルの弁証法
「ヘーゲルの弁証法」については、今まで、「正と反の対立がもたらす止揚」という知識しか持っていなかった。そして、「どのような事例が具体的に指摘できるのか?」を考え続けてきたが、今回、「ヘーゲルの歴史哲学講義」を読んだことにより、全く違った認識が生まれてきたものと感じている。つまり、「ヘーゲルが、なぜ、ギリシャ神話にまで遡り、人類の精神的な歴史的変遷を研究したのか?」を考えながら、「歴史研究の究極的な目的が、人類の自由獲得にある可能性」などの意見を吟味すると、結局は、「仏教の成仏」と「真言密教の三密加持」と似たような内容のようにも感じられたのである。
より具体的に申し上げると、「神の精神」と「動物の肉体」を併せ持った「人類」が、「過去3000年間に、どのような成長を遂げてきたのか?」を考え続けたものと思われるが、この点に関して興味深い事実は、「自然的宇宙」や「精神的宇宙」などの言葉を使いながら、「神の創った大自然」と「人の造った人間社会」などを分析した可能性である。別の言葉では、「物質は、地球の中心に向かって引き寄せられる」という「ニュートンの万有引力」が示すように、「人々の興味と関心」、すなわち、「心は、必ず、神の真理に引き寄せられる」という事実を証明したかった状況のようにも思われるのである。
ただし、残念な点は、「空海の十住心論」や「お釈迦様の教え」などに接触する機会がなかったために、「国家という共同体」という誤解を抱いた可能性であり、実際には、「国家こそが、人間社会の究極的な完成形である」というような錯覚のことである。つまり、「産業革命以降、世界の歴史が、どのような変遷を辿ったのか?」についても、実際に見ることができなかったために、「悪魔のひき臼」とでも呼ぶべき「マネーの破壊力」が、「人類の価値観を、どのように変化させていったのか?」が認識できなかったのである。
より具体的には、「人類の発展過程は単純なものではなく、実際には、植物が一日のサイクル、あるいは、一年のサイクルを経て成長するようなものである」という理解ができなかった可能性のことである。つまり、「文明の法則」を考えたものの、「西洋と東洋の文明が、800年毎に交代する」という事実に気付かなかった可能性でもあるが、実際には、この点に「神と冨の支配力」を加味すると、多くの事実が説明可能なものと考えている。
つまり、「西洋の唯物論」と「東洋の唯心論」を徹底分析することにより、本当の意味での「止揚(アウフェーベン)」が理解できる可能性のことでもあるが、現在は、この点に関して、最も重要な歴史的分岐点に差し掛かっているものと感じている。