本間宗究(本間裕)のコラム
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2023.5.30
春と修羅
宮沢賢治の「春と修羅」という詩には、現在、大きな刺激を与えられているが、その理由としては、「肉眼と心眼との違い」、そして、「人知と天智の違い」などに関して、私自身の「心の仮説」と同様のことが述べられているようにも感じられたからである。つまり、「わたくしという現象」という表現は、「肉体を持った人間が、人知や肉眼により、さまざまな不条理を経験する姿」を意味しているものと考えられるのである。
しかし、一方で、「仮定された有機交流電燈」という表現により、「神様と人間との関係性」が述べられているようにも感じられたが、具体的には、「神様が創った大自然」、すなわち、「138億年の歴史を持つ大宇宙」と「46億年の歴史を持つ地球」において、「時間とともに、大自然が、どのようにして進化したのか?」、あるいは、「数万年に誕生した人類が、大自然の中で、どのような社会を産み出したのか?」ということである。
別の言葉では、「自然科学」に関しては、ご存じのとおりに、「ニュートンの力学」により、「四次元の段階」にまで進化し、現在では、「量子理論」などにより、「11次元」にまで発展したと言われているのである。しかし、一方で、「社会科学」に関しては、いまだに「お金の謎」も解けず、また、「時間とともに、どのような空間が発展するのか?」も理解できず、「三次元の段階」に留まっているものと考えられるのである。
そして、このような状況が「修羅」という言葉に集約されているようにも感じられたが、実際のところ、この点を「心眼」や「天智」から考えると、「未熟な人類が、さまざまな苦労を味わうことにより、精神的なレベルの上昇を遂げている状況」とも理解できるのである。別の言葉では、「心眼」では、「悲母観音が、涙ながらに、人類の成長を見守り、慈しんでいる状態」が見えながらも、「肉眼」では、「神も仏もあるものか」と思われるような「現実」が存在する状況のことである。
より詳しく申し上げると、仏教を深く学んだ「宮沢賢治」にとっては、「4次元や5次元の社会科学」が、「因果の時空制約」という表現に著わされているように、ある程度、理解できていたものと考えられるのである。そして、この問題については、「心象や時間それ自身の性質として第四次延長の中で主張されます」と述べられているように、「未来の人類が、さまざま問題を解決する姿」が見えていたようにも感じられるが、実際には、「量子理論や人工知能などの応用により、軍事費などがゼロになる、効率的で平和な社会の到来」とも言えるようである。