本間宗究(本間裕)のコラム

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2019.2.15

尊敬される人々

「芹沢光治良先生」の「神シリーズ」などを参考にすると、「この世を創造したのは神であり、人間が自由にできるのは心だけである」ということが、間違いのない「真理」のようにも思われる。つまり、「人間の正体」としては、「神が創った世の中において、自分の身体などを、神から借りた存在」とも思われるが、このことは、私自身も含めた「科学万能主義の現代人」にとっては、理解が難しい点の一つとも言えるようである。

別の言葉では、「西暦1200年前後」から始まったものは「唯物論が、徐々に信じ込まれていった時代」であり、この時に「成功者」と呼ばれた人々は、「時代の流れに乗った人々」だったものと想定されるのである。つまり、「海外との貿易などにより、富を蓄積した人々」であり、また、「勤勉な労働や卓越した知識などにより、事業を成功させた人々」のことだが、当然のことながら、この時には、「世界全体の富」が増えた結果として、「他人が望む商品を販売した人々に、大きな利潤が生まれた状況」でもあった。

しかし、「西暦2000年前後」に始まった変化は、「1600年前の西ローマ時代の末期」と同様に、「唯心論が徐々に信じ込まれる時代が、再び始まった可能性」とも想定されるのである。つまり、この世の中心は「神」であり、「人間」は「神の子」、そして、「心以外の全ては、神からの借り物である」というような認識が広まる可能性のことだが、この観点から、「これからの成功者」を考えると、やはり、「精神的なレベルの高い人々」、あるいは、「天の位が高い人々」とも言えるようである。

別の言葉では、「他人から尊敬される人々」のことだがが、この時の注目点は「人々の価値基準」が変化することにより、「尊敬される人々の種類」も同様に変化する可能性である。つまり、「唯物論」が中心的な価値観となった時代においては、「事業を成功させて、多額の利益を得た人々」や「政界や大企業などで地位の高くなった人々」が「尊敬の対象」となったことも理解できるのである。

しかし、今後は、「唯心論」が中心的な価値観となり、「尊敬される人々」も変化するものと思われるが、「西暦400年から1200年」という期間において「どのような人々が尊敬の対象となったのか?」を考えると、やはり、「空海」や「最澄」、そして、「法然」や「親鸞」などが、「日本」において、大きな「尊敬の念」を集めたものと思われる。つまり、「人々の悩みや苦しみを救おうとした人々」であり、「決して、自己の利益だけを求めて行動した人々ではなかった」ものと思われるのである。