本間宗究(本間裕)のコラム

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2019.4.29

一神教と多神教

西暦392年、西ローマ帝国は、それまでの多神教から、「キリスト教」という一神教を選択したと言われているが、今から40年ほど前に、この事実を知った私自身は、それ以来、「多神教と一神教の違い」を、心の奥底で考え続けてきた。そして、現在では、「心の仮説」を使うことにより、状況説明が可能なようにも感じているが、実際には、「神が創った世の中」において「肉体に魂が入った時に、心が誕生する」という理解であり、この観点からは、「一神教」と「多神教」との違いが、単に、「神」と「神が創った大自然」とも理解できるようにも感じている。

別の言葉では、「八百万の神」が、「神が創った大自然」において、「全ての創造物に、神の想いが籠っている状況」を表しているようにも感じられるのである。そして、「大自然を敬う」ということは、「創造主である神を敬う」ということと、同じ意味を持っており、この点を理解した「自然科学」は、「天地自然の理」を解明することから、本格的な発展期に入った状況だったものと考えている。

具体的には、「ニュートン」による「重力の発見」のことだが、ご存知のとおりに、「過去300年ほどの間に、科学技術は、目覚ましい発展を遂げ、現在も、より一層の進化を見せている状況」となっている。しかし、一方で、「社会科学」や「人間の心」は、依然として未発達の状態であるために、結果として発生している現象は、「進化した技術」が、「戦争」という「殺し合い」に使われたり、また、「過剰なマネーの大膨張」が「地球環境の環境破壊」を産み出したりしている状況とも思われるのである。

つまり、「神は自分に似せて人間を創った」と言われているが、現在、似ているのは「外見」だけであり、「内面の心」については、依然として、「野蛮な獣」のような側面を持ち合わせているものと思われるのである。そのために、「神は、時代に合わせて、聖人や天使などを、この世に遣わした」とも言われているが、実際のところ、「社会科学の現状」は、いまだに、300年ほど前の「自然科学」と同様の状態にあるものと考えている。

具体的には、「中島みゆき」の「糸」という歌のように、「自由な心」が、さまざまな「人間関係」、そして、「組織」や「社会」を生み出すわけだが、現在では、この点に関する法則が、ほとんど解明されていないのである。つまり、「心とは、どのようなもので、また、どのような役割を果たすのか?」が、まったく理解されていないことが、現在、「心の闇」を創り出すとともに、いろいろな問題を引き起こしているものと感じている。