本間宗究(本間裕)のコラム

* 直近のコラムは、こちら

2020.1.24

顕教と密教

「老子」に「知る者は言わず、言うものは知らず」という言葉があるが、私自身としては、「長年、この言葉の理解に苦しんできた」という状況でもあった。つまり、「真理を知ること」と「真理を語ること」の間には、「それほど大きな違いが存在しないのではないか?」と考えていたわけだが、今回、「真言密教」における「顕教と密教の違い」や「自然科学」における「真理の発見」などを考えると、「閃きによって得られた真理」については、「いろいろな点で、言葉で表すことの難しさが存在するのではないか?」と感じられたのである。

つまり、「ニュートン」や「エジソン」などが到達した「真理」については、基本的に、「99%の努力と1%の霊感」、あるいは、「1%の百万分の1」という言葉のとおりに、「何故」を考え続けた結果として、「天に存在する神の智慧」の「わずかな部分」だけを発見できただけの状況とも感じられたのである。別の言葉では、「血の滲むような努力」を重ね「真理」に到達したものの、「自分が辿り着いたところは、全体の僅かな部分にすぎず、反対に、全体像の大きさに驚かされたのではないか?」とも感じられたのである。

そして、このような状況については、「空海」が指摘する「顕教と密教の違い」にも、ぴったり当てはまるものと感じているが、実際のところ、「仏の教え」を求めた「空海」が辿り着いた事実は、「顕教(けんぎょう)」という「言葉で説明できる教え」が、「いかに底の浅いものであるか」、あるいは、「その他に、無限の『天の智慧』が存在する事実に気づかされた状況」だったようにも感じられるのである。

その結果として、「密教」という「言葉で説明できない教え」を求めたものと思われるが、この点については、現在の「自然科学」において、すでに「当たり前の常識」となっているようにも感じられるのである。具体的には、「現実の世界」を見ることにより、「さまざまな疑問」を感じ、その後、実験などで「数多くの失敗」を繰り返すことにより、最後に、「新たな発見」や「真理」、あるいは、「神の智慧」に到達する状況のことである。

しかし、一方で、「技術を使いこなす人々」については。ご存じのとおりに、「2500年ほど前から、ほとんど、精神面が進歩しなかった可能性」があり、実際に、「東洋の仏教」や「西洋のギリシャ哲学」を読むと、「当時の人々のほうが、現代人よりも、はるかに多くの疑問を抱き、真摯に考え続けていた状況」だったものと思われるのである。そして、現在の「天変地異」については、やはり、「人類への警告」であり、実際には、「心の謎」が解かれない限り、「人類の生存」そのものが危うくなる可能性とも言えるようである。