本間宗究(本間裕)のコラム

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2020.3.15

相場から学んだこと

今年で、金融界に従事して「44年目」になるが、現在、最も思い出されることは、やはり、「実践の相場」から「数多くの学び」が得られたことだった。具体的には、「相場は常に正しい」ということであり、このことは、「全体像の一部が、常に示されている状態」のようにも感じられるのである。つまり、「答えの一部」が提示されることにより、「学校の勉強」とは違い、「なぜ、自分自身の予想や考えが間違えたのか?」などを、毎日、真剣に考えさせられた状況だったのである。

このように、「相場」においては、「答え」が「日々刻々と出る状況」となっているが、このことは、「一部分が提示されながら、全体像を推理する状況」とも思われるのである。より具体的に申し上げると、「学校の勉強」は、基本的に、「1+1は、いくつか?」というように、あらかじめ設定された問題に対して、「どれだけ早く、また、どれだけ正確に答えられるのか?」が重要なポイントともいえるのである。

しかし、一方で、「社会の勉強」については、最初に、「現実社会」という「答え」、あるいは、「全体像の一部分」を見せられ、その後に、「なぜ、このような状態となったのか?」、あるいは、「自分は、いったい、何が理解できないのか?」を考え続けなければいけないのである。しかも、現在のような「唯物論を価値観とした西洋の時代」においては、「必要は発明の母」という言葉のとおりに、「人々の役に立つ商品を作った人々」などが「お金儲けに成功した立派な人々である」という評価を受けることになるのである。

別の言葉では、「究極的な物的商品」である「マネー(お金)」が重要視される「西洋の時代」においては、「目に見える商品」に対して、人々の需要が発生したわけだが、現在の問題点は、すでに、「マネーそのものが、目に見えないデジタル通貨に変化した状況」とも言えるのである。つまり、現代人は、すでに、「目に見えないもの」、そして、「他人」に対して「心が指し始めた状況」、すなわち、「興味や関心の対象が、すでに、唯心論に向かい始めた状況」とも思われるのである。

そのために、今後の「東洋の時代」においては、尊敬の対象となるのが、「お金儲けに成功した人々」ではなく、「多くの悩みや苦しみの結果として、『神の真理』や『天の智慧』に近づくことができた人々」だと考えている。つまり、「ニュートン」や「エジソン」が「自然科学の分野」で得られたように、いろいろな「閃き」や「悟り」が、「社会科学の分野」で得られる人々のことである。