本間宗究(本間裕)のコラム

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2020.3.24

無常と苦と無我

仏教の基本は、「無常」と「苦」と「無我」を理解することでもあるようだが、実際には、「無常」、すなわち、「世の中は、常に変化する」という事実を、どのように受け止めるかが、重要なポイントとだと考えている。つまり、「苦」の内容としては、「四苦(生、老、病、死)」などが述べられているが、実際のところ、「人が生まれて、人生を送り、老いて病に罹り、最後に死ぬ」という展開については、まさに、「無常」という言葉が、ぴったり当てはまる状況とも感じられるのである。

ただし、この点に関する最も重要なポイントは、この「無常」という真実に対して、「苦しんで抗(あがら)うのか、それとも、喜んで受け入れるのか?」だと思われるが、実際には、「どちらを選ぶのか?」により、「無我」が理解できるものと思われるのである。別の言葉では、「無常」に関して、「変化の法則を理解するか否か?」ということであるが、「自然科学」の場合には、「ケプラーからニュートンへ」という言葉のとおりに、「天体のサイクルを理解し、かつ、重力の法則が発見されてから、苦から楽への大転換が発生した状況」だったようにも感じている。

つまり、過去400年間に、さまざまな「発見」や「発明」がなされたことにより、現代人は、たいへん便利で快適な生活を享受できることとなったわけだが、この点に関する問題点は、やはり、「社会科学の発展が遅れている状況」であり、結果としては、「自分たちが産み出した物質や技術」、あるいは、「マネーがもたらす弊害」に苦しんでいる状況とも言えるのである。別の言葉では、「時間のサイクル」が理解できないために、「心の謎」が解けていない状況であり、その結果として、「無我」とは反対の「我に執着している状況」のようにも感じられるのである。

より具体的に申し上げると、現在の「さまざまな問題」は、「カール・ヤスパース」が指摘する「第二の枢軸時代」のとおりに、「工業技術の進展」がもたらしたものを、「現代人が、正しく利用できていないことに、根本的な問題が存在する状況」とも考えられるのである。そして、この点に対する解決策は、「数百年前の自然科学と同様に、変化の法則を発見できるのか?」だと考えているが、実際には、「文明法則史学」を、より深く理解することであり、また、昔の人が理解していた「輪廻転生」を考えることである。つまり、「現代の神様」となった「マネー(お金)」の呪縛から解かれ、本当の意味での「神」を理解することだが、実際には、「自分自身の中に、本当の『無我』が存在する」ということのようにも感じている。