本間宗究(本間裕)のコラム

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2021.3.10

人生の意味

ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という著書では「人生の意味のコペルニクス転換が説明されている」と述べられており、具体的には、「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」という説明がなされている。しかし、私自身は、この内容が全く理解できず、いろいろな思索を重ねたが、その結果、旧約聖書の「出エジプト記」で述べられている「ヨルダン川の霊的渡河」と同様の意味のようにも感じられた次第である。

つまり、「アウシュビッツ」で命が奪われそうな瞬間に遭遇した「フランクル氏」は、「人生の意味」に関して、ある種の「悟り」を得たものと思われるが、実際には、「救いの確証」という点で、「お金や信仰で救われようとする態度が過ちだった」と理解した可能性のことである。別の言葉では、「アウシュビッツのガス室」という「極限的な瞬間」に直面した時に、「救われたいという希望」が消滅し、「なぜ、このような経験を神が与えたのか?」を徹底的に考え抜いたものと思われるのである。

そして、得られた結論は、「すべてのことに意味があり、実際には、神の愛が隠されている」ということだったようにも感じられるのである。つまり、「肉体的には、きわめて過酷な経験」でありながら、一方で、「精神的には、大きな飛躍ができた瞬間」だった可能性のことである。別の言葉では、「真言密教の三密加持」と通じる内容のようにも思われたが、実際には、「念」という「今の心」を徹底追及した時に「神の真理」に到達できる可能性のことである。

より具体的には、「魂」の奥深くに存在する「阿頼耶識」と言われる世界を垣間見た可能性のことであり、この瞬間に感じたことは、「自分が救われたい」ということよりも、「より多くの神の智慧を得て、神に近づきたい」ということだったようにも思われるのである。つまり、「人生に向かう態度」において、「利己的な精神」が抜け落ちるとともに、「神様が人間に与える深い愛」が理解できた状況とも感じられたのである。

そして、このような「コペルニクス的転換」については、間もなく、世界中の人々が経験する可能性が高いものと考えている。具体的には、「お金があれば救われる」と認識している人々が、「お金が無価値になる状態」に遭遇した結果として、「人生の意味」を問い直す状況のことだが、実際には、この時から、本格的に、「唯心論」を中心とした「東洋の時代」が幕を開けるものと考えている。